
カレル・ハシュレルは、チェコのシンガー・ソングライター、役者、作曲家、作家、脚本家、劇作家、監督などでしたが、先ず第一に熱心な愛国者でした。
ハシュレルは1879年にプラハのガラスメーカーの家族に生まれました。 最初は父親に手袋を作るための訓練を受けさせられましたが、本当は演技や演劇に興味があったそうです。青春時代に素人の役者として演技を始めました。そして1903年にプラハにある国民劇場の役者になりました。しかし、ある日公演に遅刻してしまってから、すぐ首にされたそうです。
1909年のクリスマスに、最初のハシュレルによるプラハの歌の小冊子が出ました。その小冊子には「Po starých zámeckých schodech」という歌が入っていて、この歌はすぐに大人気になりました。
ハシュレルは1920年までに9冊の歌詞の小冊子を作りました。
ハシュレルの歌は古いプラハの魔力を持っていて、そのいくつかはどんどんチェコ人に人気を得ました。
1910年にはハシュレルはヴァーツラフ広場にある新しくできたキャバレーの演劇に出始めました。そこでいろいろな歌を歌ったり、演技をしたりしながら、自分の歌を作り続けました。

1918年に第一共和国が生まれた後、ハシュレルは新しい共和国の熱心な支持者になって、いろいろな政治的な歌も作りました。それは例えば「Kampak na nás, bolševíci」というボリシェヴィキに反対する歌です。
1932年に「Písničkář」という映画が作られました。その映画はハシュレルやハシュレルの作品を象徴しています。この映画で、ハシュレルは「パベル・ハラ」の役を演じます。ハラはオーストリア帝国の参事官ですが、実際にはチェコの愛国者です。夜になると、オーストリア帝国に反対する内容の歌を歌っています。 その映画の為に「Česká písnička」という歌が作られました。その歌はすぐ有名になって、ナチスドイツによる占領の時代、国歌と同じように重要になってきました。しかし残念ながら、この歌は最終的にハシュレルが死んだ理由になってしまいました。
ナチスドイツによる占領は、チェコ人にとって、とても苦しい時代でした。しかし、ハシュレルはドイツ人を恐れていなかったので、いろいろなドイツ人やゲシュタポを愚弄している歌を作りました。その愚弄の為に「Česká písnička」の歌詞も変えてしまいました。
1941年9月2日にハシュレルはゲシュタポによってマウトハウゼン強制収容所へ送られました。そこでカレル・ハシュレルは12月22日に親衛隊のメンバーに殺されました。
私たちチェコ人は、みんなに愛されたハシュレル、天才のハシュレル、勇敢な愛国者のハシュレルのことを決して忘れません。