プラハの「Karlova ulice」にいは、ヴィクトル・ポンレポ(Viktor Ponrepo)にちなんだ映画館がある。しかし、この映画館ではたいてい他の映画館で見えるような最新の映画は上映されていない。ポンレポの映画館の非凡さは、面白い古い映画を上映していることだ。時々日本の映画も見ることができる。長い歴史がある映画館の建物は、とてもいい雰囲気だし、切符も安いし、お年寄りと学生の切符の値段はさらに安い。ここに映画を見に行くのはいい経験だと思うので、ぜひお勧めする。
ヴィクトル・ポンレポ (Viktor Ponrepo)

ヴィクトル・ポンレポは、本名ヂスマス・フェルヂナンヅ・シラボル、1858年6月6日にプラハで生まれた。彼は最初のチェコスロヴァキアの映画館を作り、チェコの映画撮影術の草分けだと言われている。
ヴィクトル・ポンレポは高校生の時、家風のとおりに金細工職人の修業をしていたが、高校を卒業したあとで、魔術師になった。魔術師の試験はハインリフ・グツワルヅ(Heinrich Gutwald)ですることができた。
役所から認可を取って、そのあと色々な町や村里へ旅して、自分の手品を披露して、すぐに人気がでた。しかし、彼は自分の名前が魔術師としては悪いと思っていたので、新しい名前を作ることにした。
「Bon Repos」という好きな城にちなんで「Ponrepo」の名前を選んだ。彼の移動劇場の名前も変わっていた。「ポンレポのマジックと幽霊やお化けが出る劇場」という劇場だった。
ポンレポは1891年に行われていた展覧会で紹介されていたエジソンの蓄音機を見てから、その機械を使いはじめた。数年後、ポンレポの競争相手ヤン・クジ一ジェネツキ一(Jan Kříženecký)が映写機を買ったので、ポンレポは映写機に興味を持つようになった。

ポンレポは間もなく魔術師として手品を披露することをやめた。代わりに、自分の移動の映画館を作った。プラハでは、当時、映画館を営むことが承認されていなかったから、また国中を旅した。
成功した映画は、例えばアフリカのブ一ルの戦争に関するドキュメンタリーや「Souboj paniček amerických」という映画などだった。
1901年に彼は数日間でプラハのKrálovské Vinohradyでのフィルム映写の認可を取った。2年あとにHolešoviceでも人々に映画を見せることができた。それに、1907年に9月15日にはチェコスロヴァキアの最初の映画館を開いた。これこそが、現代でもKarlova uliceに残るポンレポという映画館である。
その時に新しくできた映画館は56の座席があって、金曜日を除いて毎日上映していた。ポンレポの弟は観客に映画を紹介して、上映の途中で筋書きの説明をしていた。音声には蓄音機が使われていた。後で、ピアニストとバイオリニストが雇われた。ポンレポは観客を迎え入れていた。しかし、観客が次第に増えていて、全員を迎え入れることは無理になったので、ポンレポは短い映画を作った。その映画はポンレポが全部の観客を迎え入れることが出来た。
1908年ごろ、批評家は映画が人々に悪い影響を与えると思っていた。子供は映画を見られないし、検閲があるし、映画に興味を持っている人々は少なくなった。その状況に対して、ポンレポは映写の装備の店と映画レンタル店を作った。あいにく、成功しなかった。
1912年にポンレポは映画館の経営者のクラブの会長になった。しかし、第一次世界大戦のためにほとんどの経営者は自分の映画館を閉めた。
戦争が終わって、映画はまた人気が出てきたが、20年代に他の経済恐慌が来た。その時には、ポンレポは自分の映画館を売って、もう一同魔術師になろうとした。残念なことに、社会が変わっていたので、魔術師としてお金を稼ぐのは大変なことだった。1926年12月6日にヴィクトル・ポンレポは貧困の中で亡くなった。